ブックタイトル国際印刷大学校研究報告 第19巻
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国際印刷大学校研究報告 第19巻
20■国際印刷大学校研究報告第19巻(2019)治元)年までの金属活字開発期間においても、その前後の期間と変わらぬ制作ペースを保ち、10余もの作品を手掛けている。そして金属活字完成後も『祭文例』など大部におよぶ平田篤胤本シリーズの彫刻に携わり、勧業博覧会出品に向けた『烈祖成績』の開版事業を牽引した。また四代目は宮内省に招じられて宮中の開版事業に携わる栄誉に浴しており、木村家の事業は明治初期においてその最盛に達したと理解できる。従って、三代目木村嘉平による金属活字開発事業は歴史に残る成果を挙げたが、歴代木村家の家業全体から見ると、一過性の派生的業務にすぎなかったと位置付けるのが適切と思われる。次回は、三代目木村嘉平が彫刻した版本について詳しく調査する。参考文献1 『日本の近代活字・本木昌造とその周辺』(2003年・NPO法人・近代印刷活字文化保存会)p.320。『本と活字の歴史事典』(2000年・柏書房)p.454。『活字文明開化・本木昌造が築いた現代』(2003年・印刷博物館)p.111,1172 電胎法による近代的活字製造技術は、1869(明治2)年に本木昌造が米国人技師ウイリアム・ギャンブルを招聘することによって本格的に導入された。3 田村省三1999年「重要文化財「木村嘉平関係資料」について」(「季刊印刷史研究」第7号(印刷史研究会)p.25,28収録)第一号箱に鉛製欧文活字43と鉛製和文活字15、第四号箱に鉛製和文活字311。4 三谷幸吉1933年『本木昌造平野富二詳伝』(本平木野昌富造二詳伝頒布刊行会)5 田栗奎作1970年『長崎印刷百年史』(長崎県印刷工業組合)6 三代目木村嘉平を用いた戸川蓮庵は戸川播磨守安清として1836(天保7)年から1842(天保13)年まで第96代長崎奉行を勤めた。その点で長崎との関連は見出せる。(C5)p.145,pp.156-1587 (C4)p.13の「十五の少年」は、(C5)p.208の生年および(C5)p.214の没年齢に矛盾しており「十の少年」の誤りと思われる。(C5)P.133の『子叢摘芳』の発行年「文政12年」は、(C5)p.167によると文政13年である。いずれにしても初代木村嘉平は文政6年に没していることから「初代」は誤りで同書は「二代目」の刻であると思われる。(C5)p.146の「二代目」は「一八五二年」の時点で既に没しているので「二代目」は「三代目」の誤りと思われる。8( C5)p.1229 木村嘉次1976年「版木師三代木村嘉平」(「近世の学藝?史傳と考證」(八木書店)p.269収録)10( C5)p.13511( C5)p.12712( C4)p.213 木版の墨の濃淡により筆勢を表現する高度な木版印刷技術で、「さび」とよばれる。14『 烈祖成績』は187(7 明治10)年の第一回勧業博覧会に出品された後も、制作作業は継続され、翌187(8 明治11)年に全部が完成した。(C2)p.7415 図5には『古逸叢書』の書名を記さず、同書に収録された『穀梁傳』『廣韻』『荘子註疏』『草堂詩箋』を記している。16( C5)pp.192-19317 (C4)p.12。ただしクリストフ・マルケ2010年『日本の文字文化を探る・日仏の視点から』(勉誠出版)では「28歳没」と書かれている。18 クリストフ・マルケ2010年『日本の文字文化を探る・日仏の視点から』(勉誠出版)p.12819 (C5)p.219。ただしクリストフ・マルケ2010年『日本の文字文化を探る・日仏の視点から』(勉誠出版)p.133では「甥」と書かれている。