ブックタイトル国際印刷大学校研究報告 第19巻

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国際印刷大学校研究報告 第19巻

19『字彫り版木師木村嘉平とその刻本』にみる歴代木村嘉平の作品■18歳で父を亡くし、三代目木村嘉平を襲名した。家業の衰退を立て直すため、彫刻技術研鑽に打ち込んだ。その技量は、元字の運筆の妙、筆跡のにじみやかすれも再現する水準に達していたとされ、「筆意彫り」「嘉平彫り」と賞賛された13。江戸の名工として薩摩藩、加賀藩から用いられ、同藩の書籍や藩札の版制作に携わった。薩摩藩の開版事業では、『四書五経』『左伝』などを彫刻。島津斉彬から『EngelsChe SpRaakkunst (エンゲルシェ・スプラーククンスト)』の翻刻を依頼され、この実現のために金属製活字の開発を手掛けた。1877(明治10)年には江戸の版木師らを組織して『烈祖成績』を制作して第一回勧業博覧会に出品。鳳紋賞を受賞した14。・四代目木村嘉平(庄太郎・昌義・春海) (1854(安政元)年?1883(明治16)年・29歳没)三代目嘉平の長男。松浦武四郎の信頼を得て、大著『撥雲餘興・第一集』および『撥雲餘興・第二集』を手掛けた。三代目と並ぶ名工として高く評価され、『古逸叢書15』を依頼された際には、清国公使随員・楊守敬から士大夫と賞賛された逸話が残る。宮内省より『草書孝経』翻刻事業の依頼を受け、4年間にわたり同省内に赴いて制作を行った16。明治1883(明治16)年、29歳で逝去17。『草書孝経』は1895(明治28)年、伊藤博文により国貢として清国に贈呈された18。・五代目木村嘉平(赤次郎) (1873(明治6)年?1928(昭和3)年・55歳没)四代目は独身で早世したため、三代目の末子(次男)が五代目を襲名した。四代目の18歳程年下の弟にあたる。四代目が育てた職人たちに支えられ、『松菊遺稿』、『成斎文初集』などを残した。版木師業の傍ら、20歳代で巻煙草機械、写真製版事業に取り組み、30歳頃には版木師業から離れた。その後、色鉛筆、絵具、セロハン、感光紙の開発に携わった。(C)の筆者木村嘉次はこの五代目の長男である19。■歴代木村嘉平の作品(C1)~(C5)に記される歴代木村嘉平の作品を抽出し、時系列順に整理した。本稿末尾の図2~6に示した。左列から「干支」「西暦年」「元号年」そして(C)における「掲載ページ」を記した。右から2列目の「作品」欄には版木彫刻を行った版本や書画、扁額などの名称を記した。歴代木村嘉平が彫刻を行った時期は、その彫刻作業が完了した年で表すのが適当であるが、古文献の場合、その時期を正確に知ることは困難である。序文が書かれた年や刊行された年しか判明しない場合が多く、版本によっては時期に関する記述が無い場合もある。よって各図の右端の列に「種別」の欄を設け、多様な年表記の種別を記した。例えば版本の序文が書かれた年が明らかな場合は「種別」欄に「序文」と記し、刊行された年が明らかな場合は「種別」欄に「刊行」と記した。資料に記載がなかった場合は空欄とした。制作年に関連する記述がなかった作品は左側の3列を空欄にして図の下段に掲載頁順で記した。■まとめ以上の調査により、(C)に記された歴代木村嘉平の作品総数は109点であった。内訳は一代目3点、二代目18点、三代目54点、四代目30点、五代目4点であった。一代目の作品が少ないのは、活動時期が享和・文化年間と古いため、確認困難であったためとみられる。次いで五代目および二代目の作品が少ないのは、五代目は新事業に転じた結果、二代目は家業を怠った結果と説明できる。四代目は29歳で早世したため三代目と比較すると寡作である。三代目の多作は、家業に専心努力した結果、および長命を保った結果と説明できる。以上のように、(C)から見た歴代木村嘉平の作品数の多寡は、それぞれの略歴と概ね対応関係が認められると言えそうである。多くの印刷史文献では、三代目による金属活字開発を木村家最大の業績として扱い、活字開発後の三代目、および四代目における木版事業の隆盛には触れていない。明治期に入り木版印刷が過去のものとなり、活版印刷に移行した社会背景から、金属活字開発は歴代木村家の事業の掉尾を飾った事業として記されている。しかし図4を見ると、三代目は1854(安政元)年から1864(元